冷たい畳対策

12月2日(金)

今日は冷え込んだ。

でも、朝から熱かった。

サッカーワールドカップ、カタール大会。
スペイン×日本戦。

日本時間28時(午前4時)キックオフ。

昨夜寝る前は、さすがに起きるの無理だろうと思っていたけど、自然と3時半頃に目が覚めて、暖かくしてテレビで観戦。

ドイツに続いて強豪スペインを破るとは。

もうしばらく楽しめそう。

 

今日は通り報恩講は休みだったが、午前中にお寺で法事が1件。

大きなストーブは8日の仏教壮年会の境内清掃で出していただこうと思っていたので、今日は小さなストーブを用意。

そして、

《やみつき暖かマット》なるものを。

以前から本堂の椅子に座った時の畳の冷たさが気になっていた。

先日のブラックフライデーとやらに、これは!と思うものを見つけ、注文。
ただ、こればかりは試してみないと分からないので、とりあえず4枚購入。

 

今日はお二人でお参りになられた法事で、本堂に向かうと案の定爪先立ちのようにして椅子にお座りに。

どうぞ、これを足元に敷いてくださいと。

すると、法事が終わるまでピタッとマットの上に足が。

これは良いかも。
と思いながらも、もう少し様子を見て。

 

無財むざい七施しちせ

眼施げんせ やさしいまなざしで他者に接すること。

和顔悦色施わげんえつじきせ おだやかな顔で他者に接すること。

言辞施ごんじせ やさしい言葉で他者に接すること。

身施しんせ からだを使って他者に奉仕すること。

心施しんせ 他者のためにこころを配ること。

床座施しょうざせ 他者に席や場所を譲ること。

坊舎施ぼうじゃせ 他者をあたたかくおもてなしすること。

 

マット自体は購入したものなので、厳密に言うと「無財」ではないけれど、何となく無財の七施のことをふと思い出す。

このたびのワールドカップ。
森保監督はじめ、選手の皆さんの姿にもこの無財の七施をふと。

 

がんばれ、日本!

観音菩薩と弥勒菩薩

11月23日(水)

久しぶりの雨。

今日のご法事に藤井峯子様より寄贈していただいた軸を本堂のお内陣に掛けさせていただいておつとめ。

百済観音くだらかんのん弥勒菩薩みろくぼさつ

百済観音は奈良法隆寺、国宝の観音菩薩さま。

すらりと幽玄なお姿をしておられる。

親鸞聖人は、聖徳太子を倭国の教主と敬い、観音菩薩がその聖徳太子に。

救世観音大菩薩
 聖徳皇と示現して
 多々のごとくすてずして
 阿満のごとくにそひたまふ

※〈多々〉とは梵語タータの音写で父を意味し、〈阿満〉とは梵語アンバーの音写で母を意味すると。

大慈救世聖徳皇
 父のごとくにおはします
 大悲救世観世音
 母のごとくにおはします

親鸞聖人は、聖徳太子を父のように、観音菩薩を母のようにお慕いに。

 

弥勒菩薩は、法隆寺の隣にある聖徳太子が母のために建てた尼寺 中宮寺の半跏思惟像。

こちらも飛鳥時代の国宝。

とっても柔和なお顔で美しいお姿。

中宮寺では如意輪観音として伝わっているそうだが、京都太秦の広隆寺の国宝第一号弥勒菩薩ともよく比較され、弥勒菩薩であるとも。

五十六億七千万
 弥勒菩薩はとしをへん
 まことの信心うるひとは
 このたびさとりをひらくべし

弥勒菩薩は、お釈迦さまが亡くなられて五十六億七千万年後、兜率天とそつてんからこの世に出現される。
弘法大師空海も、兜率天へと往生し、弥勒菩薩がこの世に出現される時、弥勒菩薩に従って下生されるのだそう。

ただ、五十六億七千万年の時間は、あまりにも長くて遠い。。。

でも、お念仏をいただくものはそれを待つ必要もなく、このたびさとりを開くことができる。

何ともありがたい。

 

当初は聖徳太子の隣に観音菩薩を掛けようかと思ったけれど、作品が予想以上に大きかったので、七高僧の両脇に掛けることに。

今年の春に初めての個展を開かれたそうで、その中の2点を表装し、このたび寄贈していただいた。

せっかくなので、しばらくの間はお内陣に。

ようこそのお参りでした。

 

 

 

 

 

 

玉虫

9月5日(月)

東シナ海で停滞していた台風11号が北上し、いよいよ明日未明にこっちに来るそう。

どうぞ、皆さんお気をつけて。

 

今日はその台風が近づいているとは思えないくらい、青空の広がるいい天気。

車で寺へと帰ってくる手前の道で、目の前をキラキラ輝く緑色の虫が横断中。

もしかして??

と思い、車を駐め、近づいて見たら、予想どおりタマムシ!!

道路にいたら車にひかれてしまいそうなので、そっと捕まえて連れて帰る。

 

そして、写真に納めて元気で!と。

 

 
 
 
 
 
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以前、何度か玉虫の死骸を見つけたことはあったけれど、生きている姿を見たのはこれが初めて。

その時に法隆寺の玉虫厨子の絵本があるのを見つけ、買い求めたが、読み聞かせにはちょっと難しいかなぁとそのままお蔵入り。

『絵本玉虫厨子の物語』(平塚武 作・太田大八 画)

ああ、なんとこの世は、ふしぎな、そして、美しいものにみちみちていることでございましょう。草の陰にも、土のなかにも、くさった肉や、泥水のなかにでも、美しいものがひそんでいるのでございます。(中略)いまこそ若麻呂は、美しいもののまことを見ました。神を見ました。仏を見ました。いや、神をこえた美そのものを、はっきりと見ることができました。

実際にタマムシの輝く姿を見て、この絵本を読み返すと、「美しいもののまこと」、若麻呂の心の高ぶりに共感。

箪笥にタマムシを入れておくと、着物が増えるとの言い伝えがあるらしい。

着物が増えるより、また美しいもののまことに会えるといいな。 

 

 

こえをきく

6月25日(土)

 今日の中国新聞朝刊に、

呉市議会で「手話言語条例」が可決され、今月中にも施行予定と。

先日、広島市内で全国ろうあ者大会が開かれ、全国からたくさんの方がお越しになられた。
宇都宮黙霖のこともたくさんの方に知っていただけた。

 

いろいろなご事情で耳で聞くことのできない方が、手話を使って会話をされる。

耳で聞こえなくても、手指、顔の表情を通してことばを「きく」ことができる。

「音声言語」と「手話言語」。
どちらも〈ことばをきく〉。

 

浄土真宗で大切なのは「お聴聞」。

ただ、耳で聞くばかりではない。

 

先日、数冊古本を買い求め、ただいま読書中。

1冊は『わが名を称えよ 念仏行者松原致遠師の心あらう話

その中に、「ちっとも聞こえません」と言う章。

 伊勢におすわという、稀にみる殊勝の聞法者がある。このおすわさんに逢うたびに、私は「おすわさん、ちかごろはどうかね」とたずねる。実はこの人のことばによって、必ず何らかの光に遇ういつもの大功徳を、内々予期して聞くのである。するとおすわさんは、たいていのときに
 「ちっとも聞こえません」
 「聞いてくれんのに困ります」
という。こういう生命体験の表現こそ、はつごとはつごとと思って聞くべきである。

 実はこれこそ百雷である。聞えたというような小主観、自利各別の心を、全的に根本的に否定するものである。(136頁)

と。

 浄土真宗のみ教えは、ただ話を聞いて分かったと言うのではなく、南無阿弥陀仏の声をきく。

 この本を求めたのは、序文に書かれた榎本栄一氏の

宗教の救いというものは、ただこの「見えておる」ということに尽きるのではないでしょうか。そして松原先生のお説きになった智慧の念仏の極意こそ、この「見えておる」ということなのです。念仏申して内観深まり、その内観から生まれてくる智慧というのは、ただこうして自分が「見えておる」という一言に尽きるのだと、いよいよ深く知らせて頂いております。

その「見えておる」お念仏に興味を抱いて。

 

先日、注文していたフィギュアが届いた。

小振りながらも精巧に作られた京都六波羅蜜寺の空也上人像のフィギュア。

春に東京国立博物館で開かれた「空也上人と六波羅蜜寺」で好評だったものが、朝日新聞社のサイトで販売されるのを知り、すぐに注文。

日本で初めて口称念仏をひろめた空也上人の口の中から六体の阿弥陀さま。

お念仏の一声一声がみな仏。

まさに、 

綺田かばたの和上が「御声が親様である。活仏はこれじゃ。」と仰せられた。
(中略)声のなかに親をきく。声に親をきいた端的の叫びが、「御声が親様である」の驚喜となったのである。音声において音声を超えた無声の声をきくのである。(34頁)

と。

また、同じような話が、もう1冊の本の中に。

『幸福は聞える声の中に』(中川静村)

 親心をよびさますのは子のよび声、子心をよびおこすのは親のよび声。娘よ。お前が今幸福なら、それは親の声が届いている証拠。私もお前の声が聞える故に、今幸福である。大和と紀州は、念仏の中では距離も、時間もなくなる。
 古い新しいの問題ではない。
 仏、浄土、往生、涅槃、本願などのお言葉は念仏の中で生々と私たちによみがえる。
 古いとするのは聞えぬためである。
 ただ念仏することが大切である。念仏の中で、新しい今日の生き方が、仏から、じかに聞えてくる。聞えるまで念仏することである。自分の声をさしはさんではならない。
 闇とは、きこえぬ世界である。念仏はきこえぬ世界に光りとなる仏智である。すくわれるとは、仏智にすくいとられることである。すくいとられる私に、はからいは何の用もなさない。娘よ。そっくり素直に耳をかたむけよう。幸福はただその声の中にある。(177頁)

 

偶然なのか、意図的なのか、お二方とも「聞く」と「きく」、使い分けておられるようにも。

〈こえをきく〉

露草

6月16日(木)

昨日の雨が上がり、一輪の露草が。

朝咲いて昼にはしぼんでしまうところから、朝露のようにはかないからこの名前が付いたとの説も。

そして、今日の『朝日新聞』朝刊の折々のことば

つひにゆく道とはかねて聞きしかど きのふ今日とは思はざりしを
                          在原業平

昨日、久しぶりにお葬式があり、久々に「白骨の御文章」を。

 

今日、露草と折々のことばがあったので、ふと白骨の御文章のことを調べてみたら、広島県医師会速報のこの記事を↓。
http://www.hiroshima.med.or.jp/ishi/docs/0425/2225_071.pdf

「滔々と読み上げる白骨の御文章だけは何となく神妙に拝聴したものでした」

最後に都合のいい解釈をされたとしても、ちゃんとこの御文が届いてる。

そう思うと、

「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに。。。」

これからも、何方にも届くように。

 

蒲公英

6月2日(木)

朝と晩、水撒きをし、箒を引きずって端から端に兎に角歩いている。

朝は本堂正面に太陽が当たる。
夕方は本堂の裏、正面から見ると逆光になる。

でも、逆光になると、箒で掃いたその跡がくっきりと浮かび上がって見えてくる。

光と影って、面白いなぁ。

 

そのあとで、草木を見てまわるのだけれど、いろいろ見て回っていて、あっ!!

うっかりと踏みそうになった。。。

 

タンポポがこんなところに。

「蒲公英」と書いて「たんぽぽ」。

「たんぽぽ」を漢字で書きなさいと言われたら、なかなかこれは難しい。

その「たんぽぽ」と言えば、金子みすゞさんの詩をふと思い浮かべ、

星とたんぽぽ

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのやうに、
夜がくるまで沈んでる。
晝のお星は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ。
  見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
  見えぬけれでもあるんだよ。
  見えぬものでもあるんだよ。

 (『金子みすゞ全集Ⅱ・空のかあさま』より)

20年ほど前に買った全集を引っ張り出して。

 

見えてるようで見ていないなぁ。。。

ちなみに、「たんぽぽ」を英語ではユーミンの歌でも知られる「ダンデライオン」。

ずっと、黄色い花がライオンのたてがみのように見えていたのかなぁと思っていたけど、たんぽぽの葉っぱがライオンの歯のようにギザギザだからと言う意味らしい。

見えてるようで見ていない。

 

でも、 

見えぬけれどもあるんだよ。
見えぬものでもあるんだよ。

見えた時はうれしいし、
見えた時はありがたし。

 

蓑虫

5月17日(火)

今日、久しぶりに鐘楼前の花海棠はなかいどうの葉の裏に、蓑虫みのむしを見つけた。

あまりにも久しぶりだったので、気になって調べてみたら、

日本でよく見られていたミノムシは、〈オオミノガ〉と言う名前。

その〈オオミノガ〉が地方によっては絶滅危惧種になっていると!

 

何故、絶滅危惧種になっているかと言うと、〈ヤドリバエ〉と言う虫が中国大陸より侵入してきたからだと。

〈ヤドリバエ〉は、ミノムシの食べる葉っぱに小さな卵を産み付ける。
ミノムシの幼虫は、そうとは知らずにその葉っぱと一緒に卵を食べてしまう。
すると、その卵がミノムシのお腹の中で孵化し、今度はミノムシを虫食んでいく。

そのヤドリバエが急増したため、ミノムシ〈オオミノガ〉が減少しているそう。

まさに、〈獅子身中の虫〉。。。

何ともこわい話。

 

と、もう一つ。

ミノムシは〈ミノガ〉と言う蛾の幼虫だと言うのは知っていたけれど、〈蛾〉の姿になるのはオスだけなのだと。

メスは、ずっとミノムシのまま。

ミノムシの状態で交尾し、蓑の中で卵を産み、蓑の中で一生を終えていく。

 

知らなかった。

と言うよりも、今日ミノムシを見なかったら、ずっとずっと知らなかったことかも。

あんまり〈蛾〉って好まれない虫だけど、「絶滅」って言葉を聞くと。。。

そうかと言って、絶滅して欲しいって思うような虫はいろいろあるのだけれど。。。

 

あぁ、人間って勝手なものだな。。。

 

 

蛍袋

5月16日(月)

今年の春、苗を植えた蛍袋ほたるぶくろが次々と咲き始めた。

先日、雨がやんだ後に見に行くと、何だかナスのようなものが。。。

よく見ると、大きな大きな不思議な形をしたつぼみ。

そのつぼみが次々と開花。

《ホタルブクロ》とは、昔、ホタルを捕まえてこの花に入れて遊んだことに由来するとか。

別名、釣鐘草つりがねそうと呼ばれるようで、専徳寺の鐘楼を背景に。

 

ヨーロッパ原産のカンパニュラも、同じくキキョウ科ホタルブクロ属。

カンパニュラとは、ラテン語で「釣鐘」を意味するそう。

確か宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に似たような名前、「カムパネルラ」が登場したなぁと思ったら、こちらもイタリア語で「(小さな)鐘」を意味するそう。

 

正覚大音 響流十方

そして、

南無阿弥陀仏

が刻まれた専徳寺の梵鐘。

「世の中安穏なれ 仏法ひろまれ」

との願いを込めて。

牡丹開花

4月28日(木)

今日は快晴。

朝、牡丹ぼたんが一輪開花。

境内に花を迎えようと、先日牡丹の鉢植えを二種類購入。

その内の一つ、“島根長寿楽”と言う牡丹が開花。

 

牡丹はお寺の欄間やふすま絵、いろんなところに描かれている。

また、その牡丹とともに描かれるのが唐獅子。

 

「唐獅子牡丹」と言えば、高倉健さんの映画の影響もあってか、任侠の世界をイメージ。

でも、これはお経に説かれている話に由来。

百獣の王である獅子は、怖いものなしではあるが、唯一怖いものがあった。

それは、自分の体内に寄生している虫。

それによって命を奪われてしまう。

これは『阿弥陀経』の翻訳者としても知られる摩鳩羅什くまらじゅうが訳した『梵網経』に、「獅子身中の虫」と、仏教徒でありながら仏教に害をなすものの譬えとして出てくる。

これを転じて、恩を受けた者に仇で報いることの譬えとして、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも知られる『吾妻鏡』にも引用されているとか。

 

ただ、その寄生虫にも、怖いものがあった。

その寄生虫は、牡丹の夜露に当たると死んでしまうのだそう。

そこで獅子は夜露を垂れる牡丹の下で安心して眠ることが出来ると言う話から、唐獅子と牡丹が一緒に描かれ、「獅子身中の虫」「唐獅子牡丹」と言った言葉が広まったとか。

 

安住の地

私にとっての安住の地。
それがここですよと、教えてくださっている牡丹の花。

 

今日は午後から広南中学校の参観日・PTA総会。

久しぶりの参観と言うか、去年は一度もなかったので、次男が中学に入ってから初めての参観?

そこで何と!
英語の授業で今日はシンガポールのマーライオンの話。

牡丹と言えば、やっぱり獅子なのかな。

 

木耳?

4月6日(水)

新年度、新学期が始まった。

境内のソテツ、2年前にどんどん重みで枝が下がってきたので、枝ごと切ってもらった。

その切り口に、何だか今。。。。

どう見ても、木耳きくらげにしか見えないのだけれど。。。

木耳とは、木に生えるクラゲ、とか、木に生えた耳と言う意味から来ているそうで、英名では“Jew’s Ear Fungus”(ユダヤ人の耳 菌類)と言う意味だそう。

何を聞くのか、何が聞こえてくるのか。

聞く耳は世界共通。