3月8日(日)
青空の広がる日曜日。
広南中学校では卒業式。
今夜は仏教壮年会の例会。
平成26年度最後の例会ということで、呉東組実践運動の重点テーマ『浄土真宗における儀礼の意義』を、自分なりに総括して本日のテーマに。
「葬式」のあり方がいろいろと様変わりする中で、もう一度見なおしてみようと。
家族葬、直葬、0葬など、いろんな言葉が次々と聞かれる。
葬儀社によっては、「直葬」と記さず、「直送」と記してあるところもあったり。
事情があって、そうされる方もおられるので、すべてを否定することはしないが、今一度その意義を・・・。
「葬」という漢字は、「艸」+「死」+「艸」。
これは草木で厚く死者を包んで覆ったことに由来するのだと。
それでは、「死」は?
ということで調べてみると、「歹」+「匕」。
「歹」は骨の断片(残骨)、「匕」は人を表しているそう。
そこから、大きく分けて2つの見方が出てきた。
1つは、「人」が「骨」になる。これが漢字「死」の由来。
もう一つは、「匕」とは人が拝する姿。残骨を拝する姿が漢字「死」の由来。
仮に後者だとすると、大きな意味がそこにくみ取れる。
独り命を終えていくのではなく、その姿を看取ってくれる人が「死」という字にはあるんだなと。
もうすぐ3月11日。
これに関連して、絵本を読む。
岩手県大槌町の風の電話ボックスという、実話をもとに作られた作品。
ねこさんが やってきました。
ねこさんは いのるように じゅわきを とりました。
「もしもし、かみさまですか?
かみさま、おしえてください。
ひとは なぜ しんでしまうのですか?
なぜ うまれてきたのですか?
いきるということ、
しぬということは・・・・・
どういうことですか?
おしえてください・・・・・かみさま」
こんなシーンが登場する。
「かみさま」が教えてくれるかどうか分からないけれど、「ほとけさま」は教えてくれる。
3月11日。
亡くなられた方々を拝し、我が「いのち」をふりかえるご縁に。