『大乗』6月号と芳名板

5月30日(木)

今日届いた『大乗』6月号。

読者フォトのページに投稿した花まつりコンサート掲載。

午後からこのたびの内陣修復事業に御寄付くださった方々の芳名板設置。

昭和60年の昭和大修復の時に設置したのは銅板の芳名板。

今どき同等のものを設置しようとすると、かなりの金額になってしまうようなので、総代会でいろいろと審議していただいて、前の芳名板に合わせながら、出来るだけ価格を抑えることの出来る芳名板を。

と言うことで、業者の方の意見も交えながら、銅板に近い色に加工したものを設置。

芳名板設置も、今どき個人情報の問題が。。。という話もありながらも、それでも次世代に伝える大切なご縁だからと。

 

 

 

 

 

2024年5月30日 | カテゴリー : 修復事業 | 投稿者 : sentoku

広南学園学校関係者評価委員会

5月29日(水)

午前中、広南学園学校関係者評価委員会に出席。

その前に出席者の間で出た話題が、これ↓。

今朝、長浜峠を広方面に下ると、広弾薬庫すぐ南の石垣が大きく崩壊していた。
昨日の夕方通ったときには何も変化はなかったのに。
話によると、昨夜9時頃崩壊したのだとか。

Googleマップのストリートビューで見ると、

一昨年前の写真が↑。

そして、昨年8月の写真が↓。

一件あった家が取り壊されて更地となり、石垣だけが残っていたのが、このたびの雨で地盤が緩んだのかな。

2018年豪雨災害を思い出す。。。

 

小中合同の評価委員会では、広南小学校1年生から広南中学校3年生、そして特別支援学級もすべて参観。

どのクラスもいい雰囲気。

そして、そのあと今年度の取り組みについていろいろと。

最後に「コミュニティ・スクール」のことを聞かせていただく。

コミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)は、学校と地域住民等が力を合わせて学校の運営に取り組むことが可能となる「地域とともにある学校」への転換を図るための有効な仕組みです。 コミュニティ・スクールでは、学校運営に地域の声を積極的に生かし、地域と一体となって特色ある学校づくりを進めていくことができます。

これからこうした制度が推進されてくるようだけど、広南学園はもともと地域と学校がかなり密。
すでに「地域とともにある学校」のモデル校かも。

 

2024年5月29日 | カテゴリー : 災害, 長浜 | 投稿者 : sentoku

合掌チラシ

5月21日(火)

今日、5月21日は親鸞聖人の誕生日。御生誕851年。

呉東組地域の各ご家庭に、新聞の折り込みチラシ。

呉東組総代会・親鸞聖人讃仰会(協賛 呉東組仏教婦人会)の活動の一つ、合掌チラシで広報。

今年の法語は

生きては依り
 死しては帰るところあり
 いのち豊かな
 仏の世界

親鸞聖人の御誕生をお祝いし、出遇えたご縁に感謝。

 

昨日、K総代さんが専徳寺の立て看板を運んで来られた。

笹兵衛長浜店前に設置させていただいていた法座案内の立て看板を、店が閉店したため撤収してきたと。

仏教壮年会の新年互礼会、納涼会ではここのお弁当を。

いろいろ御世話になりました。

アマチャ

5月19日(日)

今日は久々にお寺での法事が一件もなく、外ばかり。

朝9時の長浜での月忌に始まり、焼山――広徳丸――横路――阿賀北――小坪と、あちらこちらで法事。

移動時間に余裕がないので、到着予定時刻を見ながら、何とか無事。

 

今、かわいらしいアマチャの花が咲いている。

先月の花まつりコンサートの前にアマチャの苗を購入。

甘茶の原料はアマチャヅルではなく、このアマチャ。

ユキノシタ科でガクアジサイのなかま。

この若葉を天日干ししてから揉み、発酵させて乾燥させたお茶が、花まつりにお釈迦さまにかける甘茶。

実際にこの花を見ると、甘茶のイメージが変わる。

 

法事の合間、それをInstagramで投稿しようとしたら、「Threadsにも投稿しますか」と。
何だか分からないけれど・・・と思いながらそのまま投稿。

 
 
 
 
 
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すると、Threadsにも初投稿。。。

Instagramの流れでアカウントは作っていたものの、ほったらかしにしてたら、一度も投稿していないのに100名を超えるフォロアーが。

 
投稿者: @sentokunet
Threadsで見る

とりあえず、こちらをご利用の方もおられるようなので、こちらにもこれから。

2024年5月19日 | カテゴリー : | 投稿者 : sentoku

広南学園運動会

5月18日(土)

晴天の下、広南学園運動会。

今年から父兄としてではなく、地域の一人として。

法事までの間、子どもたちの一生懸命な姿を見に。

勝っても負けても、みんないい顔。

特に応援したかったのは、先日読み聞かせをした1年生。

最後まで見ることは出来なかったけれど、元気をもらって。

 

午後、ご門徒のK様よりカラーを頂戴。

 
 
 
 
 
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大きくて立派なカラー。
あまりにも立派なので、庫裏の玄関に。

ようこそようこそ。

2024年5月18日 | カテゴリー : , 長浜 | 投稿者 : sentoku

ノアヤメ

5月15日(水)

ノアヤメが昨日の夕方一つ咲き、今日次々と開花。

午前中、境内を清掃していると、さっきまでシュッと剣先のようだったつぼみが、まるで風船のように膨らんで。

すると、それがパンッとはじけるように開いていく。

動画で撮ろうかと試したけれど、それは無理。。。

午前中開いた花は、夕方までかかってアヤメの花に。

 
 
 
 
 
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きちんと折り紙のように畳まれた花びらがだんだんと開いていく。

まるで蝶が羽化するように。

 

あやめ色。

《参考》NIPPON COLORS-日本の伝統色

〈菖蒲色〉と書いて「あやめ色」。

〈菖蒲色〉と書いて「しょうぶ色」と読むと、また違った色に。

昔のちょっとした違いの表現も、アヤメとショウブの違いを知らないと、伝わらないなぁと。

だからこそ、そういうのをお寺に遺しておきたいな。

2024年5月15日 | カテゴリー : | 投稿者 : sentoku

広南小学校読み聞かせ(215)

5月13日(月)

雨上がり、今朝は広南小学校読み聞かせ。

担当は1年生。

とりあえず、自己紹介。

そして、読んだ絵本は、

『ぼくのジィちゃん』(くすのきしげのり 作・吉田尚令 絵)

今週末に行われる広南学園運動会。
初めての運動会を迎える1年生に、何度か読み聞かせで読んでいるこの絵本を。

「はやく はしるということは、みぎあしをまえに だしたら、つぎは ひだりあしを まえに だす。それを、だれよりもはやくする。ただ それだけじゃ」

読み終わって、「走るの好きな人!」

と尋ねると、「ハイっ!」と手を挙げる人もいれば、「そうでもないけど。。。」とつぶやく子も。

また、ソーランが楽しみという子も。

 

今のところ天気予報では晴れ。

勝っても負けても、みんながんばって。

 

 

2024年5月13日 | カテゴリー : 絵本 | 投稿者 : sentoku

小坪薬師堂 中止

5月12日(日)

今日は午後から小坪薬師堂での法要が予定されていたけれど、雨のため中止。

自治会長さんがこのたび代わって初めてのご縁だったけれど、昨日電話があり、どの時点で連絡をしたらよろしいでしょうと。
こちらは間際でもいつでも大丈夫ですからと返答。

今日は呉市に大雨注意報が出ていたので、恐らく中止かなぁとは思っていたけれど、案の定。

 

一年に一度のご縁。

薬師堂は導師のみが堂内で、参拝者はみなさん屋外にブルーシートを敷いてのご縁。

おつとめ、法話をしている最中に、木々のざわめき、ウグイスの声やいろいろな鳥の声が反響するご縁はここでしか味わえない。
それと、一年に一度なので、あの時はこんなことがあったなぁ、とその時を思い出すことも。

 

鐘楼脇のノアヤメにつぼみがいくつも見られるようになった。

一年前にここに植えたものの、一年通して見た時、午前中直射日光が当たらないので、ここは育たない?と諦めかけていたけれど、背丈は低いもののつぼみがいくつも。

時間はかかりそうだけれど、他のも含めて成長してくれたらいいな。

 

 

 

2024年5月12日 | カテゴリー : , 行事 | 投稿者 : sentoku

呉東組聞名講 5月例会

5月10日(金)

今日は午後から専徳寺にて呉東組聞名講。

当初教法寺で開催予定だったが、諸事情により会所が変更となり、専徳寺で行うことに。

そして、法話の当番も。

この聞名講で専徳寺で専徳寺住職が法話を担当することはまずない。
だからこそ、いつもと違う形でしようかなと思って準備を。
行き詰まってばっかりだったのが。。。

専徳寺の由来から、この聞名講を設立した大洲順道の話へ。

大洲順道は、明治9年に専徳寺へ入寺し、10年に住職に。
その翌年、聞名講を設立。

そして、明治19年から約10年鹿児島別院。
その間、明治22年に専徳寺本堂新築。

日本一の模範村、広村にも多大なる影響を。

このめまぐるしい活躍の源は何だったのか。

 

2年前に「仁村守三」のことを知りたいと問い合わせがあり、初めてキリスト教の歴史の中に「大洲順道」が存在することを知った。

仁村守三。1800以降~1880以降
本願寺派の僧侶。肥前に生まれる。本名は大州順三。1870年6月長崎において聖公会宣教師G・エンソーから受洗。
72年諜者として日本基督公会の創立に加わる。
73年3月横浜公会堂第一回総会で執事に選ばれる。
同年9月東京築地小田原町新栄橋際に設立された東京日本基督公会に会員として参加し、その後同公会の地方伝道に当たり、島亘と共に武州引股村に出張伝道する。
76年粟津高明が退会した頃長老であったが、やがて教会を離れ、広島県賀茂郡長浜の真宗本願寺派専徳寺の住職となり、香川実玄と名乗ったといわれる。(『キリスト教人名辞典』)

ただ、「仁村守三」のことを調べれば調べるほど矛盾する点が多いのに、「らしい」とか「いわれる」の記述ばかり。
そんなこともあり、「なかなか受け入れがたい」と返答したのに、相手はまったく違う受け取り方をしているのを、とあるサイトで見つけた。

《諜者》であったのは事実かも知れないけれども、どうも合点がいかないので、国会図書館デジタルコレクションでいろいろ調べていると、順道が専徳寺へ入寺する前、「豊田道二(道爾)」「観山順道」を名告っていた時期があると。

六 大洲師の閲歷
 師は藤川逸平翁の長子で天保十四年廣島縣豊田郡竹仁村に生れたのである。幼時より學を好みて十四歳の時に出家得度し、それより縣内所々に遊學し文久元年十九歳の時笈を負ふて豊前中津に至り勸學善護師の門に入り宗乗の學を修むること三年にして帰国し、ますます教典の研鑽を積み、内外の律令史なども涉獵したのである。ところが王政維新に際し、世論漸く廃佛毀釋に傾き、加ふるに外さへ侵入の兆候ありたれば憤慨して止まず、早速本山に上りて宿弊改新の議を建白し続いて長崎に下り、英學研究の傍ら内外の形勢を察して遂に國事に奔走するの念慮を起すに至ったのである。
 そこで明治四年四月には東上して時の太政大臣三條公其他の權門に出入して廢佛毀釋の謂れなきことを論明し、島地默雷大洲鉄然小栗憲一等の有志と提携して、教部省設置のために盡力したのである。そして九年四月に数部省出仕を拝命するに至ったのであるが、間も無く同省が廢止さるゝこととなったので、東京を辞して本山に帰り再び僧形に復したのである。
 師が髪短袖、自ら豊田道爾又は観山順道と呼んで居った時代はこの國事に奔走して居った時のことである。
 かくて明治十年九月本村專徳寺に入り翌十一年九月住職となったのである。
 専徳寺の所在地なる長濱は村の南端にありて戸数八百を算し漁民と農民と相半して之に商賣を交ゆるところであるが、居民多くは頑固曖昧にして渡す可からざるものゝ多かったところである。然るに師は明治十年入寺の當時より、政令を遵守すべきこと、時間を貴ぶべきこと、節約勤倹なるべきこと、斷髪のこと、新暦遵守のこと、就學のこと、悪疫豫防のこと、兵疫應徴のこと、租税完納のこと、林伐の禁制を守ること、賭博喧嘩の取締のこと、訴訟紛議の仲裁等、一々懇諭して、啻に心身の勞を惜しまなかったと云ふばかりでなく、之が矯正を計るためには再三私財を投じたことがあったのである。
 自坊再建のことは多年の宿望であった。それで率先して私嚢を投じて喜捨金を募ったところが、數萬金を得たので明治二十二年二月工事に取りかゝり、八ヶ月の工程を経て同年九月に至り、近郷には比類稀なる荘厳善美の大伽藍を建立するに至ったのである。
 之より先、明治十九年八月から、師は鹿兒島別院を兼職することになつたのであるが、二十九年二月に至るまでの十ヶ年間、一意専心に同地方の布教に盡力して、管下十餘萬の信徒を服せしめたので、別院の再建も成就するに至ったと云ふことである。而も其間に道路開鏧のことのこと、勞役勧誘のこと、實業奨勵のことなどに盡力し、要路の當局者に後援を送ったことが多大であったので、當代縣知事の厚遇を得たと云ふことである。
 師は其後本村に歸住してからも、相も渝らず数化善導のために盡力して居られたのであるが、明治三十五年に至り住職を退いて寺務一切を新住職に一任されたのである。併し教化善導のために盡力することは毫も渝らないのである。ところが新住職が昨年急病にかゝり死去されたそうで、之れには師も餘程當惑して居られると云ふことであった。
 大洲師の歴を調査したことは、端なくも本村の人物について調査して見たいと云ふ考を誘起されたから、藤田村長に其由を語りたれば多少調査したものがあると云って、調査資料を示されたから、之により最近の篤志家、又は善行者を調べて見たら次のやうな人々がある。(『学校中心 自治民育要義』 村田宇一郎著 明治43年)

 諜者との記述はないが、そこから光明の糸口が。

 

 順道は、明治元年に本願寺に入り、原口針水に師事。
 当時、キリスト教を長崎で学び、詳しかった原口針水が本山にて破邪顕正御用掛に任用された。
 そして明治2年、太政官の弾正台が設立。

 こうした経緯で、順道もキリスト教の実情を探るため、所謂「諜者」として潜入したのではないだろうか。

 《豊田道二》は、大隈文書によると、東京での上級諜者の名前として登場。
 《観山順道》は、教務省の名簿に。

その活動記録が、早稲田大学の大隈文書に残っている。

それらを見ると、その頃の「諜者」はキリスト教解禁前の様々な情報を上(太政官)に報告していたよう。

ただ、キリスト教の実情を目の当たりにして、これは太刀打ちできないと思ったのだろうなぁと。

 

キリスト教禁止が解け、廃仏毀釈も徐々に沈静化していくなか、本願寺へと戻った順道は専徳寺に入寺。

そこからのめまぐるしい活躍は、広村に掲げられた「教育第一」。これが一番だったのかなと。

順道と一緒に諜者として知られる安藤劉太郎(関信三)。
大谷派の僧侶で、日本で最初に幼稚園を設立した人。

大隈重信が早稲田大学を創設し、安藤劉太郎が幼稚園を日本で初めて設立し、大洲順道は真徳教社(崇徳教社)、広島学寮などの設立にも名前が出てくるのを見ると、キリスト教から学んだのは、いずれもいずれも「教育第一」だったのかなと。

大洲順道は豊田道爾(道二)。

これは間違いないことだと思う。

ただ、その経験を活かして、隠遁して隠れることもなく、動いている姿に改めて。

 

そのあと、御示談。

今日の問いは、

私は、必ず終わる命を生きていると知りながらも目を背けています。あなたの後生の一大事の解決を教えてください。

導師に法話に御示談と一人でするのはちょっと大変かなと。

それでもこのご縁を通して学んだことが。

ようこそのお参りでした。

 

2024年5月10日 | カテゴリー : 呉東組 | 投稿者 : sentoku

仏教壮年会 5月例会

5月8日(水)

今朝9時から仏教壮年会による境内清掃。

のはずが。。。

いつも来られる方々がお越しにならない。。。
清掃前に回覧をまわしていたそうだが、今回それがまわらなかったのが原因らしい。

それでも、6名の会員が集まってくださった。

そして、毎月第2水曜日に本堂の清掃に来てくださる婦人会有志の方が6名来てくださったので、本堂と境内、両方を綺麗にしていただけた。

境内は草抜きを中心に。
今年は雨が多いせいか、抜いても抜いても次から次へと。

 

明後日開かれる呉東組聞名講に向けて、1つ準備が整った。

ありがとうございました。

 

そして、夜は仏教壮年会例会。

今夜は『歎異抄』第七条、「念仏者は無碍の一道なり」。

障碍しょうがい障害しょうがいしょうがい」と表記が変わっていった話から、本来の「障碍しょうげ」の意味を伺ってみた。

念仏者は無碍の一道なり。

障りなく、護られて。

ようこそのお参りでした。

例会後、聞名講の時に皆さまに見ていただこうと、広如上人の「旃檀林」を。
本来聞名講では、自坊で住職が講師をつとめる機会はないので、せっかくだから専徳寺のこと、そして聞名講設立者大洲順道の生きざまを。

 

2024年5月8日 | カテゴリー : 行事 | 投稿者 : sentoku