3月3日(水)
3月3日は、桃の節句、ひなまつり。
そして、耳の日。
「耳の日」は、耳や聴力について多くの人の関心を集めること、そして難聴と言語障害をもつ人たちの悩みを少しでも解決することを目的として、日本耳鼻咽喉科学会の提案により1956(昭和31)年に制定され、それから約50年後の2007(平成19)年に、WHOが3月3日を「International ear care day」(国際耳の日)とすることを宣言。
宇都宮黙霖が、聴力や言葉を失っても、国を変えるために奔走した話は、この広南地区では小学生でも知っている。
でも、「耳で聞く」ことは目に見えないので、なかなか理解されにくい。
このコロナ禍で、目に見える“形”が求められているように思う。
マスクやアクリル板、そして日々の検温。
目に見えるカタチで目に見えない新型コロナウィルスの飛沫感染リスクを抑えると言うように。
そんなことを考えてると、10年前の東日本大震災の後、連日ACジャパンのコマーシャルのこの言葉を思い出す。
「こころ」は
だれにも見えないけれど
「こころづかい」は見える
「思い」は
見えないけれど
「思いやり」は
だれにでも見える
その気持ちをカタチに
この言葉は、宮沢章二さんの『行為の意味』から抜粋されたもの。
行為の意味
宮沢 章二
あなたの心はどんな形ですかと
人に聞かれても答えようがない
自分にも 他人にも心は見えない
けれどほんとうに見えないのであろうか
確かに心はだれにも見えないけれど
心づかいは見えるのだ
それは 人に対する積極的な行為だから
同じように胸の中の思いは見えないけれど
思いやりは見えるのだ
それは 人に対する積極的な行為なのだから
あたたかい心が あたたかい行為になり
やさしい思いが やさしい行為になるとき
「心」も「思い」も、初めて美しく生きる
それは 人が人として生きることだ
見えることで少しでも安心できる世界もある。
そう思って、当時「願」バッジを作り、組内寺院にも御協力いただいて合計1100個の「願」バッジを制作。
カタチにすることも大切なことだと、その時に学んだ。
そして、コロナ禍でマスク着用が日常となった時、すぐに思い浮かんだのが、対話支援スピーカー『コミューン』の使用。
昨年4月に導入して、外にお参りに出る時は必ず持参。
葬儀会館でもマイクを使用しないこともあったりするため、マスクとコミューンは忘れずに。
マスクやアクリル板があると、どうしても聞こえづらくなる。
特に「sh」「h」「t」の子音は聞こえづらくなるそうで、例えば「11日」と「17日」を聞き間違うことも。「じゅうしちにち」と言ってるつもりが、「じゅういちにち」と聞こえていたり。
でも、聞こえづらいからと言って、ただただ大きな声を出せばいいと言う訳でもない。
ますます聞こえづらくなったり、うるさく感じたり、怖く感じたり。。。
聞こえやすい声を届けることで、ちょっとした安心感を持てるのでは。
お参りの後、時々コミューンのことをお尋ねになられるので、聞こえの話を知ってる範囲でお応えするのだが、すると「子どもや孫が来た時に、テレビの音量が大きくなってると注意されます」とよく聞く。
誰でも年を重ねると、だんだん聞こえる音域が狭まってくる。
その聞こえにくくなった音域を補聴器で補うことが出来るのだけど、日本では補聴器を使う人が海外に比べるとまだまだ少ないらしいので、結局音量ばかりが大きくなってしまい、その音量さえも分からなくなってしまう。
〈伝える〉側が〈聞こえ〉を考える
3月3日、今日は耳の日。