10月16日(火)
青空の広がる良いお天気に。
今日も引き続いて報恩講法要。
朝席では、正信偈のおつとめに続いて、『正信偈』のお話より。
覩見諸仏浄土因
ただ眺めるだけでなく、つぶさにご覧になられ、動いて見られている仏さまのお味わい。
そして、昼席で御満座。
天井の扇風機を少し回すほどの陽気に。
今年も善通寺御住職を導師に、住蓮寺・広真光寺・浄円寺・呉専徳寺の御住職に御出勤いただいてのおつとめ。
おつとめの後は、
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情を捨てずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
のご和讃よりのお味わい。
最後に、癌で亡くなられた中島みどりさんの手記より、『大悲の親にいだかれて』を紹介してくださったので、ご紹介。
大悲の親とは、いったい誰のことかと思いますね。
そのお方はね、阿弥陀如来さまのことです。
お母さんは、幼い頃より死に対しての不安がありました。
ひとりぼっちになるのがこわかったのです。
死んでしまったらひとりぼっちになってしまうと思っていたのです。
愛する人たちと、死んでしまったら二度と会うことはできないのだと思っていたのです。
だから、とてもさみしくて、やりきれない悲しさで一杯でした。でもね、お母さんのお母さんがね、「心配はいらないよ、お寺にお参りして聞かせていただければ、きっと解決できるよ」と教えてくれたの。
だから、お母さんは必死でお寺にお参りしたわ。
でもね、わかろうとすればするほど、わからなくなるの、聞けば聞くほどわからなくなる気がして、お母さんも大学生ぐらいまでは、ありがたいとか、守られているとか、思ったことはないし、まして、安心などできようもなかった。
だから、いつも不安はつきまとっていた。でもね、あるとき、ふと胸が熱くなるほどありがたいなーって思ったことがあったの。
お寺にお参りして聴聞に遇っていたときだったと思います。
そして、とめどもなく涙があふれて私自身のおろかさと、この身の幸せを感じたことでした。
このとき、私ははじめて、ありがたい、もったいない大悲の親に、いだかれているのだなと思うことができたのです。
その気持ちは幼き頃、仏壇の中にあった親鸞聖人の『御一代記』を読んで涙し、感動したときのよろこびにも似ていました。お母さんの心の師は、親鸞聖人でした。
この親鸞さまの本がご縁で真実の親さまに遇うことができました。
ありがたいことです。
こうして病気になっても少しもさみしくありません。
仏さまと二人づれと思えば生も死もなくなります。
苦しいときも、痛いときも、楽なときも、いつでも一緒の阿弥陀さま。ついつい口から“なもあみだぶつ”と出てくださいます。
心配するな、ここにいるよ、といつも声をかけてくださいます。
ありがたいことです。お母さんの目は、凡夫の目だから、仏さまを見ることはとうていできませんけど、仏さまはいつも離れず、つきそって守ってくださっているのです。
それは、お母さんだけでなく、夏美や洋生はもちろんのこと、すべての人たちのことを、わが子のように大切に思ってくださっているのです。
だから、夏美も洋生もどうか手を合わせる子になってください。
お仏壇に、お寺にお参りしてくれるような人になってください。
そして、あなたたちが精一杯生きて、この世が終わったら母の待つ、お浄土に生まれてきてくださいね。
また会える世界があるということは幸せなことです。
この世でどんなにつらいことがおこっても、がんばってのりきれるでしょう。
死んでしまったらおしまいと考えるのはあまりにもさみしすぎますね。
死ぬのではなく、生まれてゆく世界があるのです。
愛する人と会える世界があるのです。
それがわかると安心してこの世を生きていけるでしょう。
夏美、洋生、どうか安心してこの世を渡ってください。
母はいつでも、あなたたち二人の心の中に生きつづけています。
さみしいとき、かなしいときは“なもあみだぶつ”ととなえてください。
お母さんはいつでも一緒です。
おかげさまで御満座。
ようこそのお参りでした。