1月22日(月)
冷たい雨の降るなか、午後から教法寺にて久しぶりの呉東組聞名講。
おつとめに続いて、いつもどおり会所御住職による御消息の拝読。
そして、善通寺御住職の御法話。
御示談では、まずは役員の方が用意してくださったアンケート結果より。
「浄土真宗の生活信条」ですが、どのように思って口にさせてもらっていますか?
との質問。
今あることをおかげさまと頂き、ありがとうございますと喜ばせていただいてます。
み仏に抱かれて、感謝しながら、お念佛を申しております。
つらいことがあったり、心に波風が立つ時、自分自身を落ち着かせるために口にしています。
「み仏の光を仰ぎ」というところで、さわりのない光がいつも届いているとしみじみ思いながら、目をつぶって口にしております。
お寺で唱えるときは、なるほど守らなければと思いながら唱えますが、平素は忘れてしまいます。
「阿弥陀さまの願いによって念仏者としてお育てにあずかったのだから、それを自覚した生活をしましょう」と言うことでしょうが、難しいです。
などなど、いろいろ。
そして、「我聞如是」と「如是我聞」の違いは?との質問。
この質問に対し、普段はあまり御同行の中から意見が出ないのだが、述べてくださる方が。
「如是我聞」はおなじみの『阿弥陀経』等の冒頭、「我聞如是」は『大経(無量寿経)』の冒頭。 どちらも同じことなのだが、組長様よりお経の成り立ちをお話いただき、いずれのお経も終わりには「歓喜(よろこび)」が説かれているとのご教示。
「仏説此経已 舎利弗 及諸比丘 一切世間 天人阿修羅等 聞仏所説 歓喜信受 作礼而去」
(仏、この経を説きたまふことおわりて、舎利弗およびもろもろの比丘、一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞きて、歓喜し、信受して、礼をなして去りにき)
『阿弥陀経』の最後も歓喜。
この聞名講もいつも「歓喜」で終わるといいなぁと。
その後、来年度に向けて役員会。
今年もよろしくお願いします。
ようこそのお参りでした。