1月20日(金)
今朝の中国新聞。呉・東広島版に、昨日の石泉文庫防火訓練の記事。
文化財防火デー。 伝えることも大切なことの一つ。
こうして新聞に載ることで、「こんなことをしたよ」と、家の中での会話に出て来ればいいなと思いながら。
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今日は午後から呉東組、今年最初の行事、聞名講の1月例会が宝徳寺にて。
正信偈のおつとめ、法謙寺御住職の法話に続いて、御示談。
今日も役員の方があらかじめ質問用紙をご用意してくださったものから。
《寺に参ると心(煩悩)が清らかになった。そうならないのであれば、寺に参る意味がない」と言われる意見がありました。どう思われますか?》
この問いに、
「清らかにならないからこそ、繰り返し参り、参れることを喜ぶことも大切だと思います。」
「どれほど聞かせていただいても、それで心が清らかになるほどのきれいな私ではありません。常に聞き、教え導かれながら、やっと生きてゆかれるような気がしてます。」
「一時的にはおだやかになりますので、続けて聴聞したいと思います。」
「煩悩を清らかにするためではなく、煩悩の絶えることのないわが身に気づかせていただく大切な時間と思います。」
「元気で参られたことを喜ぶのみです。」
と、よくよくお聴聞されている御同行の回答。
「清らかになる」、〈清らかにならなければ、往生することはできない〉という教えであれば、「清らかになる」ことが重要になってくるけれど、阿弥陀さまの願いに照らされて、自らの姿を知らされると、煩悩まみれの私がそこに。
でも、阿弥陀さまの願いをいただいた方々の回答を聞かせていただくと、みんな輝いてるなぁ。
「是人名分陀利華」
泥の中から咲く白蓮華。煩悩を肥やしに美しく。
終わった後、3月の委員会(総会)に向けての役員会。
帰る頃には雪がチラチラ。
寒い中をようこそのお参りでした。