6月23日(日)
今夜はスーパームーン。
1年で一番月が大きく見える夜だそうだが、曇って見ることは叶わない・・・。
今夜は広の浄円寺にて、我聞会6月例会。
『蓮如上人御一代記聞書』輪読は(146)(147)。
蓮如上人が子どものオムツを自分で洗ったという苦労話。
今のように紙オムツでなく、しかも蓮如上人は子だくさん。
たくさんのオムツが干されてたのであろう・・・。
また、本願寺が当時青蓮院の末寺であったと話が出て、「末寺」とはどのような形の末寺だったのだろうと、いろいろ話が。
法話では、「懺悔」ということばについて。
浄土真宗では、あまり使われることのないことばであっても、その正しい意味を知り、どうして使われないかを知っておかなければという話を聞かせていただいた。
「懺悔」は、「ざんげ」と一般的に読まれているが、仏教では「さんげ」。
キリスト教は、「ざんげ」。
自らの罪を告白し、悔い改める。また、許しを請うとの意味で使われる。
これと合わせて使われることばに、「慚愧(ざんぎ/ざんき)」。
「慚愧懺悔(ざんぎさんげ)」と合わせて使われることが多かったため、江戸時代に「ざんげ」と濁音で呼ばれるようになったともいわれるのだとか。
「慚愧(ざんぎ)」は、「慚」と「愧」と分けて解釈されるようだが、一般的には罪を恥じることを意味したことば。
親鸞聖人は、『正像末和讃』悲嘆述懐讃で、
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ蛇蝎奸詐のこころにて
自力修善はかなふまじ
如来の回向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん
と、罪を恥じることも出来ない私であることを嘆き、そんな私だからこそ弥陀如来の願いをいただいていることを讃えている。
浄土真宗は懺悔しなくてもよい教えではなく、恥じることも悔い改めることも出来ない私を知らされ、その私に願いが届いてるって知らされる教え。
そんなふうにいただくのかな。
明日は読み聞かせ。