3月26日(火)
今日の朝席で春季彼岸会も御満座。
今日は『歎異抄』の踊躍歓喜のこころが起きないという唯円房の問いの話。
そのなかで、「死に方」についてのお話を聞かせていただいた。
今はあんまりこんな表現を用いないかも知れないが、「畳の上で死にたい」ということばをよく聞いた。
それから、「あんな人、ろくな死に方をしない!」ということばも。
「死に方」というのがよく問われるが、浄土真宗では死に方は問わない。
臨終が大切なのではなく、今(平生)。
仙厓和尚の辞世のことばは「死にとうない」であったと。
『歎異抄』に、
なごりをしく おもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。
この“いのち”が愛おしいと思う気持ちがあるから、「名残惜しく」いそぎ浄土に参りたいという気持ちが湧いてこない。
ただ、浄土があるからこそ、いつ、どこで、どんなかたちで“いのち”尽きたとしても、この“いのち”を生き抜くことができるのではなかろうか。
彼岸とは遠い彼方ではなく、今を生きて向かっている方向に。
生きているいのちを大切に。
ようこそのお参りでした。