7月10日(火)
青空のもと、午後から広の浄円寺にて、呉東組聞名講の7月例会。
たくさんの講員の方がお聴聞に来られた。
正信偈のお勤め。
浄円寺御住職による聞名講宛の御消息拝読。
西光寺御住職による法話。
そして、御示談。
今日出た質問は3つ。
まずは、「御示談(ごじだん)」とはどういう意味でしょう?という質問。
蓮如上人の頃、僧侶の説く教えを一方的に聞くだけでなく、それを聞いた後、お互いの領解を語り合い、誤りを正していく方法が取られるようになったことにはじまる。
今、「示談」といえば、裁判をしなくても良いように、双方が話し合って解決する方法という意味で使われているが、もともとはそんな意味。
次の質問は、「聴聞」。
どちらも「きく」という字が使われているが、「聞」でなく「問」でないのはどうしてでしょう?
この質問は、問いを持って聞くのでは?という思いから起こった質問。
問いを持って聞くには、そこに自らのはからいがはたらく。
親鸞聖人は『御本典(顕浄土真実教行証文類)』の「聴聞」という字に、「ゆるされてきく、信じてきく」という意味を添えられた。
この「聴聞」、法を聞くことからお寺に参ることもすべて「お聴聞」と呼ぶようになった。
そして、「お聴聞」を通していただいたこころを「お味わい」と表現するようになる。
自分がしているのに、させていただいている。
お味わいの世界である。
そして、最後は聖典に載っているお経。
いつ、何のお経を読むと決まっているのでしょうか?という質問。
別に決まりはないのだが、多くの方がいつも家で読んでいるのは、正信偈か、重誓偈・讃仏偈と答えられた。
重誓偈や讃仏偈を読む理由で多いのは、「短いので」という答え。
お経を読むのは、仏徳讃嘆。
ほとけさまの徳をほめたたえること。
「忙しいから短いのを」という気持ちは分かるのだが、その場合ほめたたえるよりも、時間がないのでごめんなさい!という気持ちになりがちではないだろうか。
たとえ短くても、こころをゆったりと。
今日はそんな御示談で閉じる。
ようこそのお参りでした。