6月8日(金)
今日、梅雨入り。
朝から雨がシトシト
。
親鸞聖人像の前のアジサイも雨に濡れて、生き生きと。
今回のテーマは『生き抜く』。
先日亡くなられた新藤兼人映画監督の「生きている限り 生き抜く」のことばを受けて、「生き抜く」をテーマに話を進めた。
本願寺の春の法要(立教開宗記念法要)でされたご門主さまのご法話(ご教示)のなかで、
昨年、2011年は、宗門、本願寺にとっては750回大遠忌法要の年として特別の意味を持っていますが、日本の国全体を見るとき、東日本大震災の年となるでしょう。
50年に一度の得難いご縁に遇えると、いささか心弾んでいた私でしたが、災害の大きさに戸惑うばかりでした。しかし、身を引き締めて大遠忌法要をおつとめしていますと、親鸞聖人の時代は今以上に天災地変の続いていたことがわかり、親鸞聖人の教えは、そのような中を生き抜かれたご体験に即している、と感じるようになりました。
と、「生き抜かれたご体験」とおっしゃられた。
『方丈記』にも登場する大火・竜巻・大地震、そして政治の混迷。
今と似たように感じる時代だが、なかでも養和の飢饉では、京都市内だけで42,300名の方が亡くなったそう。(東日本大震災15,861名)
しかも、
築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界にみち満ちて、変わりゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり。 (方丈記)
と、大変な時代のなかで生き抜かれた。
先日、お参り先で、「東日本大震災で15,000名を超える方が亡くなったのを、お釈迦さまだったら何とおっしゃったでしょう?」と尋ねられた。
何とおっしゃられるかは分からないけど、次のようにその時は答えた。
「お釈迦さまは諸行無常とおっしゃっておられるけれど、恐らく、それよりも残されたものがこれをご縁にどう生きていくか。それを問われるのではないでしょうか」と答えた。
「生きている限り 生き抜く」
限りのあるいのちを生き抜くと、そのいのちは輝いている。
足もとの悪いなか、ようこそのお参りでした。