2月27日(月)
2月は組内行事が少なく、法座もないため、1年のなかで一番楽な時期にあたるが、法務は別。
昨日は6件の法事とお通夜で一日読経。
さすがに今日は喉が腫れている。
それでも、今日も普通に声は出ているので、そのことに感謝。
今夜は住蓮寺にて我聞会。
(117)は、蓮如上人が能や狂言のしぐさを見せたりしながら、聞くものに退屈させずに法話をされる話。
蓮如上人のいろんな伝道の仕方を改めて知らされる。
『聞書』は本と末の2巻に分かれているが、その本巻がこれで終わった。
この『聞書』を読み始めたのがいつか?という話が出て、本の発行年が1999年なのでそれ以降だろうとの話になったが、定かでない。それでも10年ほどかかってようやく読み終わる。
継続は力なり
内容に関しては覚えていないことの方が多いかも知れないが、続けていることでいろんなことを学んでる。
法話では、「知ってるつもり」。
さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
私たちは縁に触れればどうなるか分からないという話から、「4つの殺」の話を聞かせていただく。
自殺 (じせつ)
他殺 (たせつ)
呪殺 (じゅせつ)
方便殺 (ほうべんせつ)
それに「歓喜殺(かんぎせつ)」というのを加えて、「五殺」というそうだ。
これは戒律の経典『梵網経』に由来するそうで、「自殺」とは、自分のいのちを自ら断つことだけではなく、不摂生によって自分の命を無駄にするような生き方も「自殺」。
「他殺」とは、他の命を奪うことであるが、私たちは知らず知らず虫を踏み殺していたりすることもある。
「呪殺」とは、「あの人さえいなければ・・・」と、こころに思うこともある意味「呪殺」。
「方便殺」とは、手だてとして間接的に命を奪っていることもある。薬を飲むことも、その開発にはネズミなど無数の命がそこで失われていることも。
「歓喜殺」とは、殺されたことによろこびを感じていることを表している。
仏教では、不殺生戒を説くが、こんなことを聞いていると、すべてどこかでしてしまっているような気も。
自分だけは大丈夫と思っているような私が、ただの「つもり」になっていたことに気づかされるのが法事の場という話を聞かせていただいた。