7月11日(月)
今日は午後から呉東組聞名講の例会が阿賀の西光寺にて開かれる。
予定では法話担当が住蓮寺御住職であったが、昨年度担当を入れ替わったことがあって、今回は教法寺御住職がされることに。
引き続いて、御示談。
お仏壇の脇掛の親鸞聖人御絵像に「和朝親鸞聖人」とある。
この「和朝(わちょう)」とは何でしょうか?という質問。
その他、嫁いだ娘のお宅の宗教が違っている場合、どのようにしたら良いのでしょう?というような質問が出た。
まず、「和朝」とは、親鸞聖人は「和国の教主」と聖徳太子を仰がれた。
「和朝」とは日本のことを示していると簡単な話で終わったが、帰って調べてみると、この親鸞聖人の御絵像には、
慶哉愚禿仰惟
樹心弘誓彿地
流情難思法海
嘆所聞慶時獲
和朝親鸞聖人
と、画讃と呼ばれる書が記されている。
これは、親鸞聖人の書かれた『浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)』の「念仏正信偈 」の少し前に出てくる
慶(よろこ)ばしきかな、愚禿(ぐとく)、仰(あお)いで惟(おもん)んみれば、心(しん)を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶつじ)に樹(た)て、情(こころ)を難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流(なが)す。聞(き)くところを嘆(たん)じ、獲(う)るところを慶(よろこ)びて、真言(しんごん)を採集(さいしゅう)し、師釈(ししゃく)を鈔出(しょうしゅつ)して、もっぱら無上尊(むじょうそん)を念(ねん)じて、ことに広大(こうだい)の恩(おん)を報(ほう)ず。
という御文である。
そして、「和朝親鸞聖人」とあるのは、同じく親鸞聖人の書かれた『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』のなかに、
和朝愚禿釋親鸞「正信偈」文
「本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃・・・・」
と、自らを「和朝愚禿釋親鸞」と名のられた箇所が一箇所ある。
そこに由来するようだ。
それから、次の質問。
宗教が違っているという話では、「お葬式で故人の宗教が違っても門徒式章を付けて参っています」との話も出る。
門徒式章は、浄土真宗門徒という証。
相手がどのような宗教であろうと、自らの姿を。
黙祷もそう。
それぞれに違う宗教の方が集まるところでは、特に。
浄土真宗の門徒であれば、本来なら合掌してお念仏。
ただし、声に出すと他の宗教の方の妨げになってしまうこともあるかも。
そんなことを思うと、こころのなかでお念仏。
和国の教主聖徳太子は、『第十七条憲法』第一条に、
和(やわ)らかなるをもつて貴しとなし、忤(さか)ふることなきを宗となす。
と示された。
相手を敬うこころ。これも大切なこと。
相手を敬うこころで接することから対話も生まれる。
今日の御示談からそんなことを学んだ。
次回例会は9月。
暑い夏となりそうだが、お互いからだに気をつけて。