7月24日(日)
今夜は川尻光明寺にて呉東組の若手僧侶の勉強会『我聞会』の例会。
『蓮如上人御一代記聞書』の(107)(108)を輪読。
(107)人は自尊心が高く、自分の考えを他人から批判されるのを好まない。
蓮如上人は、「だれからでも心得違いを直してもらうよう心がけることが大切なのである」と仰せられた。
なかなかこれが出来ないこと。でも、お互いに大切なことでもある。
(108)では、善知識について。
「善知識とは?」と問われたN氏が、臨終勤行にお参りした時の亡くなられた方の姿と答えた。
新鮮な答えを聞かせていただいた。
輪読の後、法話として「いただきます」と「ごちそうさま」の話を聞かせていただく。
浄土真宗本願寺派では「食前のことば」「食後のことば」があるが、それが一昨年一部改められた。
食前のことばは、
みほとけとみなさまのおかげにより
このごちそうをめぐまれました。
(同音)深くご恩をよろこび、ありがたくいただきます。
が、
多くのいのちと、みなさまのおかげにより
このごちそうをめぐまれました。
(同音)深くご恩をよろこび ありがたくいただきます。
と変更され、食後のことばが、
尊いおめぐみにより、このごちそうをめぐまれました。
(同音)おかげでごちそうさまでした。
から、
尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
(同音)おかげでごちそうさまでした。
に変わった。
(ことばの解説は本願寺のホームページで。)
帰宅して、このことについて調べてみた。
この改訂前の食事のことばは、昭和34年に作られたもので、それ以前は、
食前のことば
われ今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵とにより
この美しき食を饗く。
つつしみて食の来由を尋ねて味の膿淡を問わじ。
つつしみて食の功徳を念じて品の多少を選ばじ。
いただきます。
食後のことば
われ今、この美わしき食を終りて、心ゆたかにちから身に充つ。
願わくは、この心身を捧げておのが業にいそしみ、
誓って四恩にむくい奉らん。
ごちそうさま。
だったのだそう。
これは、今でも天台宗で同じことばが用いられているようだ。
本願寺派では、江戸時代に日渓法霖が『対食偈』というものを作っている。
法霖は、石泉僧叡よりも少し前の学僧である。
粒々皆是檀信 粒々みなこれ檀信
滴々悉是檀波 滴々ことごとくこれ檀波
非士農非工商 士農にあらず工商にあらず
無勢力無産業 勢力なく産業なし
自非福田心力 福田衣の力にあらざるよりんば
安有得此飯食 いずくんぞこの飯食を得ることあらんや
慎莫問味濃淡 慎んで味の濃淡を問うことなかれ
慎莫論品多少 慎んで品の多少を論ずることなかれ
此是保命薬餌 これはこれ保命の薬餌なり
療飢与渇則足 飢と渇とを療すればすなわち足る
若起不足想念 もし不足の想念を起こさば
化為鉄丸銅汁 化して鉄丸銅汁とならん
若不知食来由 もし食の来由を知らずんば
如堕負重牛馬 重きを負える牛馬に堕すごとし
寄語勧諸行者 語を寄せてもろもろの行者に勧む
食時須作此言 食するときすべからくこの言をなすべし
願以此飯食力 願わくばこの飯食の力をもって
長養我色相身 わが色相の身を長養し
上為法門干城 上は法門の干城となり
下為苦海津筏 下は苦海の津筏となりて
普教化諸衆生 あまねくもろもろの衆生を教化し
共往生安楽国 ともに安楽国に往生せん
尊いいのちをいただく。そして、感謝の気持ちを込めて、「いただきます」「ごちそうさま」。
よその宗教では、神に感謝。神に祈りを捧げる。
でも、こちらは目の前にあるいのちに。
日本語ではそんな気持ちを込めて、「お」や「さま」を付ける。
「お肉」「お魚」「お野菜」「御飯」「お茶」・・・。
日本の“ことば”の持っている意味を大切に。
また、今日もいろんなことを学ばせていただいた。