5月12日(木)
本日、本願寺ホームページによりますと、新門さまご夫妻にご長男が誕生されたそうです。
大変な時期ではありますが、お慶び申しあげます。
TEL.0823-71-7926
〒737-0136 広島県呉市広長浜3-13-21
5月11日(水)
朝席で永代経法要も御満座。
このたびは法座中ずっと雨。
しかも、大雨警報まで出るなか、たくさんのお参りをいただいた。
『唯信鈔文意』の冒頭、『五会法事讃』の
如来尊号甚分明
十方世界普流行
但有称名皆得往
観音勢至自来迎
より、弥陀の智慧と慈悲について、いろいろとお聞かせいただいた。
「願」の缶バッジの方も、法要中に200個ほど持ち帰っていただけたようだ。
「願いをこころに」
それぞれに如来のこころをいただき、出来ることをさせていただきましょう。
「ともにがんばろう」のこころで。
ところで、今回の法要中、本堂に新しく登場したのが、これ。↓
よく、カフェやレストランの前に置いてあるメニューボード。
以前より案内板を置きたいと思っていたが、ホワイトボードだとちょっと本堂には・・・。
と思っていたら、たまたまいいものを見つけた。
磁石でいろいろな案内を貼っておけるので、告知するのにちょうど良い。
それと、御講師用にチョークホルダー。
私も黒板の板書の際、手に付くチョークが以前より気になっていた。
先日、本願寺のホームページで法要の中継を見たら、徳永和上が法話をされているところだった。
その時、こんなチョークホルダーを使っているのを見て、さっそく検索し、注文。
これで、手を汚さず板書ができるように。
次回の法座は6月婦人会法座。
お誘いあわせてお参りください。
5月10日(火)
永代経法要2日目。
朝から一日雨模様。
『唯信鈔文意』より、「唯」「信」の話を聞かせていただく。
「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこころなり。
(『唯信鈔文意』)
「唯」は、「口」ヘンに「隹(ふるとり)」。
「隹」とは鳥をあらわす。
鳥のなかでもハトの話。
ツバメなどの雛は、巣に親が近づくと大きく口を開けて、親からもらったエサを食べて大きくなるけど、ハトはちょっと違う。
ハトの雛は、他の鳥の雛のように親が近づいても口を開けない。
その我が子に対し、親は子の頭をくわえ、お腹のなかからエサを口に流し込む。
この子のためにただ流し込む行為として、「唯」の話を聞かせていただいた。
小さい頃、巣から落ちたキジバトの雛に、いくらエサをあげようと思っても、口を開いてくれず、そのまま亡くなってしまったことを思い出す。
ハトは、エサをそのまま幼い雛に与えることはしない。
親がおなかの身を削って母乳のようなものを作り、それを雛の頭をくわえて一気に流し込んで食べさせる。
この母乳のようなものは、「ピジョンミルク(ハトの乳)」と呼ばれている。
ただ、人間の母乳と違うのは、このミルクはメスだけでなく、オスにも作れるのだそう。
昼席は、『阿弥陀経』を読経し、参拝者に焼香をしていただく。
三奉請に続いて表白を読む。
永代経法要ならびに東日本大震災追悼法要。
このたびは、専徳寺門信徒のみならず、先の震災で亡くなられたたくさんの方々を偲んで、法要を営んだ。
夜席、安登の方では大雨警報が出ていたにもかかわらず、お参りいただいた。
昨年の7月の虫干しの時を思い出す。
明日の朝席で御満座。
5月9日(月)
今日は午後から呉東組聞名講が安登の浄念寺にて開かれた。
正信偈のおつとめに続いて、浄念寺住職の御消息拝読。
その後、当初の予定では宝徳寺住職による法話であったが、私が代わりをつとめる。
「願」の話をする。
目に見えない不安を抱えている。
昨日テレビで初めて「便所飯」という言葉を聞き、その話も交えながら。
これも他人にどう思われているか分からないという、目に見えない不安から起きていることだろう。
その後の御示談のなかでも、どのように誘ったらお寺に参るようになるだろうといった質問が出て、後ろ姿を通して伝わっていくことなどが話に出た。
その願いをカタチに。
今夜から当山は永代経法要。
5月8日(日)
昼から仏教壮年会の境内清掃。
年に2回、5月と11月に境内を会員のみなさんと一緒に。
草むしりに落ち葉拾い、1時間ほど汗を流す。
明日夜席より永代経法要。気持ちよく迎えられそうだ。
そして、夜は仏教壮年会の例会。
今月のテーマは「願」。
「願」のバッジを作った経緯から、『御文章』の「信心獲得章」を読む。
信心獲得すといふは、第十八の願をこころうるなり。その願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。
「信心」や「念仏」といった言葉が通じにくくなっているといわれるが、「願(ねがう)」は小さい子どもでも分かることば。
その「願」を通して「信心」や「念仏」を見ていく方が理解しやすいと思う。
ただ、理解しやすいといっても、それはあくまで思議の世界。はからいの世界。
阿弥陀如来の広大不可思議な願いを到底理解することは出来ない。
願力不思議をもって消滅するいはれあるがゆゑに、・・・
そんなことで、浅原才市の、
胸にさかせた信の花、弥陀にとられて今ははや、信心らしいものはさらになし。自力というても苦にゃならぬ、他力というてもわかりゃせぬ。親が知っていれば楽なものよ。
を紹介。
ゴールデンウィークも終わり、世のなかも動き出した。
メディアから少しずつ震災関連のニュースが少なくなっていく。
でも、忘れてはいけない。
「願」のバッジを胸(こころ)にいただき、いろんなかたちでそれぞれに思いを届けて欲しい。
清掃、例会と続いて、お疲れさまでした。
5月1日(日)
今夜は、専徳寺で月に一度の法中会。
今回も議題の中心は東日本大震災に関連したこと。
そのなかで、「義捐金」と「義援金」の違いについても触れられる。
「義捐」とは、明治時代に作られた和製漢語。
「義」は、正しい行い。公共のために力を尽くすこと。
「捐」は、すてる、すてさる。
「義捐金」とは、正しい行いのため、公共のために捨てる金を意味するのだと。
それが、戦後の国語改革のなかで、「捐」が当用漢字に採用されなかったため、「義えん金」と表記するように。
今使われている「義援金」という表記は、新聞協会による独自の基準で定めた言葉だそう。
ただ、現在一般的には「義援金」で認識されている。
そこで、分かりづらい表現をとらず、「義援金」と表すことに。
呉東組で今日の法中会に集まった義援金は、
3,757,500円
組内16ヶ寺で震災以来それぞれに集め、持ち寄った額である。
専徳寺では、3月の春季彼岸会の法座中に、義援金箱を設置して集めさせていただいた
97,500円
を納めさせていただいた。
それと長浜仏教壮年会から10,000円。
今日集まったお金は、広島別院に届けられ、「浄土真宗本願寺派 安芸教区 寺院・門信徒一同」として、安芸教区全体より集まった義援金と一緒に、このたびは中国新聞社へ納められることに。
ただ、これで終わりではなく、第一回目。
これからも、引き続きそれぞれに募金活動を行っていく。
その助けとなるか分からないが、私の作った「願」のバッジ。
先日、組長(そちょう)さんに報告したところ、法中会で紹介して欲しいと依頼があった。
今日、法中のみなさんに紹介したところ、これを呉東組全体で取り組んでいこうと話をいただく。
その第一弾として、5月11日から呉東組750回大遠忌団体参拝に行かれる方の輪袈裟、式章に付けていただくことになった。
この「願」のバッジ。
今の日本人にとって、一番求められているのはカタチ。
放射能などの目に見えないものに対する不安、先の見えない不安。
見えないものに対する不安があるからこそ、目に見えるものに安心感を覚える。
だからこそ、「願」というバッジでカタチにしてみた。
5月に150名ほどの参拝者が、胸に「願」をいただいて本山に。
相手を思う気持ちを大切に。
ともにがんばろう。
5月1日(日)
午後から広島の福屋八丁堀店に『手塚治虫展』を見に行く。
5月28日より映画『ブッダ』が公開されるのと、鉄腕アトムデビュー60周年を記念して。
手塚治虫の作品には、それぞれメッセージが込められている。
手塚アニメは『西遊記』に始まった。
三蔵法師と出会う前、孫悟空が天界で大暴れしてる時、お釈迦さまの掌から抜け出せるか、賭けをしたところ、觔斗雲に乗って天の最果てまで行き、その最果てと思っていた五本の柱に「斉天大聖至此一游」と書き記し、立ち小便までして帰ってくる。
でも、戻ってみると、その柱はお釈迦さまの手の指だった。
『西遊記』といえば、このシーンを思い出す。
この孫悟空は、現在の人間の姿にダブって見える。
科学はどこまでいっても思議の世界。
自分を超えた不可思議なる存在を知るからこそ、人間は自らの慢心に気づかされるのではないだろうか。
想定外。
この言葉を何度聞いたことだろう。
手塚治虫の描いたブッダが、アニメとしてよみがえった。
それが、どのように描かれているかは分からないが、今の時代に何らかのメッセージを届けてくれるのだろうか。
今夜は専徳寺で法中会。