宇都宮黙霖

勤皇僧 黙霖

吉田松陰に多大なる影響を与えた黙霖。
長浜に生まれ、波瀾万丈の生涯。
この人の存在がなかったら、日本の歴史は・・・。



生 涯

1824年(文政7年)
石泉社で勉学中の西福寺三男俊嶺を父に、下兼屋宇都宮作兵衛の娘 お琴を母に、姉の嫁ぎ先である住蓮寺にて誕生。幼名「采女」。ただし、俊嶺勉学中のため、結婚は認められず。
生後半年で西福寺に引き取られるが、3歳の時、賀茂郡正力村善正庵 禮敬のもとへ養子に。
6歳の時、禮敬が亡くなり、跡継ぎの一道が養父となる。
7,8歳の時から手習いのため長浜へと帰されたが、身に入らず、養父との折り合いも悪くなり、正力村と長浜を往復する生活に。
13歳の時、一道と養子離縁して、実母のもとへ引き取られたが、相変わらず手習いは身に入らなかった。
1838年(天保8年)
15歳、専徳寺住職 常諦のもとに引き取られ、大学の素読等をはじめ、国学を学ぶ。(常諦の妻テルは、黙霖の母お琴の妹。)
1842年(天保13年)
賀茂郡寺家村の儒学者 野坂由節のもとで、『春秋左氏伝』の講義を受ける。
蒲刈弘願寺の円識の樹心斎塾で学び、さらに儒学者 坂井虎山の虎山塾で学ぶ。
1844年(弘化元年)
遊学の旅に出るが、10月に大阪で大病を患い、長浜に帰って専徳寺で療養。
その病気のため、聾唖の身となり、以後筆談による生活。
1845年(弘化2年)
本願寺にて得度。法名 覚了。
1850年(嘉永3年)
九州に遊学。
1851年(嘉永4年)
山陰に遊学。
1853年(嘉永6年)
尊王倒幕を説いて回る黙霖に対し、幕府が広島浅野藩に追補を命じる。
1855年(安政2年)
萩に赴き、吉田松陰の『幽囚録』を読んで感動し、獄中の松陰に書を送って文通を繰り返し、松陰に大きな影響を与える。
1858年(安政5年)
備後三原にて広島藩に捕らえられる。
1860年(万延元年)
出獄。
1866年(慶應2年)
長州の藩校明倫館の需員(教員)に推され、社寺管轄を兼ねる役目につくが、すぐにこれらの職を辞して長浜へと帰り、還俗してから宇都宮真名介雄綱と名のる。
明倫館の文学寮で、皇室の衰退と幕府を批判した『毛詩和韻』を著し、それを興正寺の本寂上人を通して孝明天皇に献上する決意をして出立するが、広島藩に捕縛。
1867年(慶應3年)
夏に出獄し、京都に向かう。
この年10月に大政奉還。
1868年(明治元年)
11月、呉荘山田村の澤原家にて広島藩に捕らえられる。
1869年(明治2年)
出獄後、翌年清国渡航のため、長崎に出向き、在留清国人や長崎奉行に申し出るが、渡航許可証がなければ不可能ということで、明治4年上京し、外務省に願い出るものの却下される。
1871年(明治4年)
勤皇の功により終身三人附持を与えられ、「大阪官属」を授かる。
1873年(明治6年)
湊川神社権宮司、ついで男山八幡宮の禰宜に任命される。
1882年(明治15年)
この頃、長浜の観海舎へ隠棲し、石泉文庫所蔵の大蔵経を読破して、和訳を行い、35万首の和歌を創作。
1894年(明治27年)
日清戦争に際し、広島を訪れた伊藤博文総理大臣に招かれ、広島の長沼旅館にて面会。
1897年(明治30年)9月15日
澤原家にて亡くなる。(74歳)